「なぜか功徳だと思ってたこと」あるいは「なぜか罰が怖くてやめられない私」

いいですよ

静かに創価学会を去るために

このブログをはじめるきっかけとなったブログ「白バラ通信 パンドラの箱」の希望様から、テーマのリクエストがありました。「信仰を支える宗教的体験」(仮)ということでしたが、なかなか難しそうですので、『「なぜか功徳だと思ってたこと」あるいは「なぜか罰が怖くてやめられない私」』とさせていただきます。

創価での体験を「宗教的体験」と思いこんで、何かにつけて功徳や罰の現象として都合よく解釈することで「この信心に間違いはない」とか「この信心をしているからこそ守られた」とか「まだ功徳がないのは自分の信心が弱いからだ」とか「まだ人間革命の途中だから」などとしか捉えられなくなるということでしょうか。
要は功徳も罰も、そう思いたいから信じてしまうのであって、しかしそれは自分の都合での単なる思い込みでしかないことに気がつかないだけなんだということですよね。そう思いたい人が集まって抱く共同幻想のようなもの。例えば夜空に光る何かを見た複数の人たちが「あれは間違いなくUFOだ」と信じて疑わず、そこにいた人たちがみな同じようなUFOの形を説明することがあるように、そうあってほしいという共通の気持ちが同じような幻想を見ることになり、さらに幻想と現実の区別がつかなくなるような現象だと思います。集団催眠にも近いのではないでしょうか。これは創価学会にかぎらず、カルトに見られる特徴のひとつだと思いますし、こうした心理的な現象を利用して意図的に誘導していくのが創価学会のマインドコントロールだと思っています。
したがって創価学会での信仰体験といえども、意図的なマインドコントロールがつくりだした都合のいい共同幻想だと言えるのではないでしょうか。
日蓮信仰の特徴である「正しい信仰を実践している自分たちだけが正しい」というのが基本に植え付けられていますから、あとは何であっても最終的にそこに落ち着く思考しかできなくなる。いや、そんなものは思考とも言えません。まさに洗脳ですね。どのスイッチを入れても、全部同じ電球しかつかない機械のようなものです。
つまり創価学会の活動によって得られる信仰体験のようなものは、洗脳によって作り出された共同幻想であると私は思います。そこに自分で考える余地を与えないように、徹底して活動漬けにして、勤行唱題によって日々強化していく。挙げ句の果てには自分で考えることに罪悪感さえ抱くようになる。そうなるとみなさんご存知のとおり一般常識など全く通用しない人間になってしまいます。
安保法案に反対して公明党を避難してデモまでやる学会員はまさに思考停止の創価脳だと思います。公明党を悪者にすることで「正しい信仰を実践している自分たちだけが正しい」ということに満足してしまって、なぜ公明党があのような態度をとるのかまでは考えないんです。自分たちが都合よく組織のガス抜きに利用されていることにも全く気がつかないんです。
こうして学会員さんは自分の都合のいい単なる思い込みを信仰体験だと勘違いしたまま搾取され続けるんですよね。

ということで、今回は皆さんが「これが宗教体験だと思い込んでしまっていたエピソード」を具体的にお話していただけると、まだそのことに気がついてない方や、まだなんとなく創価を宗教だと思ってしまっている方にとっては、眼から鱗状態になるかもしれません。「たしかにそんな風に思い込んでいたよなあ…」「あれ?それって信仰の力じゃなかったの?」「ええ〜っ!騙されてたんだ〜っ!なんてこったいっ!」という方がいらっしゃると思います。私も含めて、けっこうみなさんバカバカしいほどに信じて騙されてきたんですよね。今回はそこが明らかになればと思います。よろしくお願いします。

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