エンゲル係数を急上昇させている「犯人」は誰だ?

良い記事です

Global Ethics

本川裕の社会実情データ・エッセイ
【第1回】 2016年6月8日 本川 裕 [統計データ分析家]

長期的には低下傾向にあったのに…

家計に占める食費の割合であるエンゲル係数が最近、急上昇している。まず、最近の動きを長いエンゲル係数のトレンドの中に位置づけてみよう。図1には戦前からのエンゲル係数の長期推移を示した。

図1 エンゲル係数の長期推移

エンゲル係数の長期推移を見ると、明治期以降、大正の1910年代まではほぼ65%前後で推移していたが、大正から昭和戦前期にかけて50%程度までに低下した。戦前においても、大正時代以降には食べ物以外の消費生活のための支出が増加し、生活の向上が図られたことがうかがえる。それでも、現在、インドのエンゲル係数が3割前後であるなど途上国でも多くの国が現在は5割を切っているのと比較すると、戦前期の日本はこれをはるかに上回っており、この時代の日本人はギリギリの生活を送っていたことが分かる。

その後、第2次世界大戦中や戦後直後の食糧難時代には再度エンゲル係数は60%程度まで上昇したが、経済復興の過程で1950年代に戦前水準まで低下したのち、その後の高度経済成長期の生活向上を経て現在の20%台の水準へと急速に低下した。

「家計に占める食費の割合であるエンゲル係数は、生活水準に反比例する」というのが、ドイツの経済学者エルンスト・エンゲルが明らかにした「エンゲルの法則」である。それは、時系列でも同時点の階層別でも当てはまると考えられている。エンゲル係数の長期的な低下傾向が経済発展にともなう生活水準の上昇によるものだという理解は大きくは間違っていないだろう。

そうした中、わが国のエンゲル係数は2005年の22.9%を底に反転し、2015年には25.0%と急上昇した点が印象的な動きとなっている(図1の「最近の動き」参照)。戦後の一貫した傾向が逆転したため、やや、驚きをもって受け止められているといえる。

こうした最近のエンゲル係数の上昇については、次のような要因が考えられている。

(短期的要因として)
・収入の伸び悩み・減少(エンゲルの法則どおり収入が減っても食費は減らせない)
・消費税アップによる生活水準低下(可処分所得の減の影響)
・円安効果(輸入が多い食料品の相対価格の上昇の影響)

(長期傾向だが最近強まった要因として)
・共稼ぎ夫婦の増加(惣菜・弁当などの中食や外食の増加)
・高齢者世帯の増加(教育費やマイカー費などの減。食費は減らせない)
・1人世帯の増加(1人分の食料購入は割高)
・安全志向・グルメ志向(高額につく安全な食品あるいは美食へのこだわり)

エンゲルの法則からは、収入や税金の動きに伴う生活水準の低下がエンゲル係数の上昇に結びついたとする見方が説得的である。最近アベノミクスの負の側面が顕在化しているという見方と結びつける理解がここから生まれる。

しかし、生活水準の低下は今に始まったことなのだろうか。バブル崩壊以降、生活は徐々に苦しくなってきたのではないか。そうであるなら今になってエンゲル係数が上昇しているのは何故かがむしろナゾとなる。この点を明らかにするため、時系列的な生活水準とエンゲル係数の動きを相関図を描いて確かめてみよう。

苦しい生活の中でエンゲル係数は
むしろ下がった?

家計の実質的な生活水準の動きを図るために「消費水準指数」が家計調査を実施している総務省統計局によって公表されている。これは、家計調査による消費支出額をもとに物価の変動による影響を取り除き、また、世帯員数の変化が実質的な生活水準に大きな影響を与えるので(例えば、2人世帯でも3人世帯でも冷蔵庫は一つ必要であり1人当たりの消費支出額が同じでも人数が少ないと生活が苦しい)、世帯員数の構成が不変として計算した指標である。

図2に消費水準指数をX軸、エンゲル係数をY軸にとって、毎年の動きを示した。

 図2 生活水準と連動したエンゲル係数の動き

生活水準が低下し始めた(X軸を左に移動し始めた)のはバブル崩壊の1993年以後の傾向だが、その時期、エンゲル係数が下がっており、異例な動きだった。最近、やっとエンゲルの法則に沿った動きとなっている。エンゲルの法則は、1981~93年の期間、及び2004年以降には、消費水準指数とエンゲル係数とが傾向線に沿った動きとなっていることから、おおむね、当てはまっており、その間の1993~2004年に約3%ポイントのエンゲル係数の下方シフトが生じたことが理解される。

この時期に何が起こったのであろうか。実は、この時期は、情報通信革命が家計に大きな影響を与えた時期なのである。

参考図としてパソコン・携帯電話の普及率推移や家計における通信費割合の推移を掲げておいた。1990年代後半から2000年代前半にかけての時期は情報通信機器が家庭に急速に浸透し、家計支出に占める通信費割合が2%から4%へと一気に2倍となったという非常に大きな変化が生じたのである。通信費などはその後もじりじり上昇しているが、なお4%台を継続しており、一時期ほどの上昇スピードではない。

この時期、生活が苦しくなっていたにもかかわらず、それまではゼロであったパソコン、インターネット、携帯電話・スマホといった新技術に要する経費が急にふくらんだため、食費を必要以上に切り詰めざるを得ず、その結果、エンゲル係数はむしろ下がっていたと考えられる。最近は、変化が一段落し、こうした新技術への家計支出が一時期ほど大きくふくらむ情勢ではないので、エンゲルの法則が再び働くようになり、生活水準の低下に応じてエンゲル係数が上昇しているのではないかと考えられる。

すなわち、携帯電話普及の時期に、本来上がるべきエンゲル係数がむしろ下がっていたので、それが生活水準の上昇が継続しているという錯覚を生じさせることになり、その結果、最近のエンゲル係数の上昇が突然の現象に見えることになったと捉えることができる。エンゲル係数上昇の犯人は意外なところにいたようだ。

なお、傾向線に沿った動きを示している時期でも、傾向線からの乖離が目立っていたケースが、2度、認められる。一つは、1980年代後半から1990年代の前半にかけての時期にエンゲル係数が傾向線よりやや上向いたケースである。これは外食費が拡大した時期に当たっており、バブル経済の影響だと考えられる。もう一つは、2015年に前年までの傾向線から見てエンゲル係数が跳ね上がったケースであり、これは円安の進行による食料価格の相対的上昇が影響している可能性が高いといえよう。

主要国の動きの中でわが国が特異なわけではない

日本のこうしたエンゲル係数の動きは、主要国と比較してどのような特徴が浮かび上がるのだろう。エンゲル係数の上昇はわが国だけの傾向なのだろうか?

わが国以外では家計調査は本格的に行われてはおらず、行われているとしても基準が同一だとは限らないので、諸外国の家計調査を使うわけには行かない。そこで、作成基準が統一されているGDP統計(SNA)の国内最終家計消費の内訳から算出したエンゲル係数で各国の動きを比較してみよう(図3参照)。

 図3 主要国のエンゲル係数の推移

欧米主要国の動きを見る限り、米国と英国を除いて、反転の時期は異なるが、日本と同様に、下がり続けていたエンゲル係数が最近上昇に転じている。しかも、日本と同様に1995~2005年の時期には、米国と英国を含めて、すべての国でエンゲル係数が下がり続けていた状況が認められる。

すなわち、日本と同様に情報通信革命が大きく進行した時期にエンゲル係数が下方シフトし、それが落ち着いてエンゲル係数が上昇ケースも見られるようになったというのが、先進国共通の動きだと推測できよう。

なお、2009年には日本とドイツを除くすべての国でエンゲル係数が短期的に跳ね上がっているが、これは、2008年の穀物価格の急上昇の影響と見られよう。日本がその時期にエンゲル係数に大きな変化が見られなかったのは円高傾向が相殺要因として働いていたからであろう。むしろ、グラフの動きからは、2015年の円安が日本のエンゲル係数を特異に上昇させている印象が得られるのである。

データにもとづき社会の動きを追う

本連載では、統計データの動きを独自に整理、グラフ化することによって、意外な社会の動きやわが国の状況を追って行きたいと考えている。もっとも堅苦しいものではなく、趣味的な個人の嗜好も含めたざっくばらんなものとしたい。体系的な思想というよりエッセイ形式で人間習俗(モラル)を観察したモラリストの伝統に連なれればと考え、連載タイトルにエッセイという用語を含めてもらった。

ダイヤモンド社のルーツは1913(大正2)年創刊の雑誌ダイヤモンドであるが、創刊当初から「数字」を重視し、データに基づいた産業・企業分析に定評があった。創刊号の表紙を飾った「そろばん」の意匠がそれを象徴しており、創業者石山賢吉は本誌の主義として「是とするも非とするも、総て算盤に拠り、算盤を離れて何物もない」とまで言っている。

この連載が、こうしたダイヤモンド社の創業の精神を引き継ぎ、データ・ファクトに立脚した内容のあるものとなるようにしたいと考えていますので、ご愛読のほど、よろしくお願いいたします。

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