「方丈記私記」(5)        「 死」が人間の中軸に居据る伝統

Webcitizen徒然草

初めて堀田善衞著「方丈記私記」を読んだ時、私にとっては「この儀式の内奥にあるものは、言うまでもなく生ではなくて死である。」という一節こそ、まさに「理解不能な事柄」だった。
何を著者は言いたいのだろうか。

未曾有の東京大空襲の直後の焼け跡に、にわかに集まった警察や憲兵が
「石畳の上に散乱していた焼け残りの鍋などを蹴散らして整理」
している場面に堀田は遭遇した。
禍に巻き込まれないように堀田は物陰で見ていた。そこに
「小豆色の、ぴかぴかと、上天気な朝日の光を浴びて光る車のなかから、軍服に磨きたてられた長靴をはいた天皇が下りて」
きたところを目撃しまった。
「この儀式の内奥にあるものは、言うまでもなく生ではなくて死である。」
このとき27歳の堀田善衛に沸き起こった印象がなかなかつかめなかったのだ。(58~9ページ)

なぜこんな感懐が湧いたのか、私は何度もこの部分を読み返して自分なりにイメージを繰り返し吟味してみた。
そしてそこに、当たり前のことながら、「皇国教育」をたたき込まれた世代と、戦後生まれの我々との間の際立った違いがあることにやっと気がついた。

廃墟となった「富岡八幡の焼け跡で、高位の役人や軍人たちが、地図をひろげてある机に近づいては入れかわり立ちかわり最敬礼をして何事か報告か説明のようなことをしている——それはまったく奇怪な、現実の猛火と焼け跡とも何の関係のない、一種異様な儀式として私には見えていた——、それはなんとも、どう理解しようにも理解の仕様もない異様な儀式と私には見えていた。」
ということなのだが、ここで被災状況の報告を受ける天皇と側近たちの姿を「奇怪」「異様な儀式」と表現したのはたぶん、この行幸が大袈裟なのにその実は内容のない、形式的で場違いな行為に見えたのだろう。

なぜなら、これほどの規模の悲惨な「大量虐殺死」が、
「誰がなんといっても強いられた死であり、誰一人として自ら欲しての死ではない」
ものなのだが、それにもかかわらず
「それらの死に対しての、最高の責任者」が、
無残な焦土とはあまりにも場違いな出で立ち(いわば、「大元帥閣下」のトータルファッション)で
「予告もなく突然に」「のこのこ」登場して、自らが強制した「死」の結果報告を受けているという、いま眼前の絵柄が
「どうにも現実としては信じられない、理解不能な事柄」『62-3ページ)
という文脈になるのではないだろうか。

この時、満州事変以来の戦争とともにあった自らの時代の「政治の中枢」について初めて「考え込んで」しまったと堀田は告白している。

ところが、堀田が考えたのは「大量死」を命じた政治上の最高責任者であるはずの「天皇」自体ではない。ひとつは、
「廃墟でのこの奇怪な儀式のようなものが開始されたときに、あたりでは焼け跡をほっくりかえしていた、まばらな人影がこそこそというふうに集まって来て、それが集まってみると実は可成りな人数になり、それぞれがもっていた鳶口や円匙(えんぴ)を前に置いて、しめった灰のなかに土下座した、その人たちの口から出た」、民衆の「ことばについて」なのだった。

このとき、「私は方々に穴のあいたコンクリート塀の蔭にしゃがんでいたのだが」
「これらの人々は本当に土下座をして、涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました、まことに申し訳ない次第でございます、生命をささげまして、といった」
ことばを発した、というのだ。
だから堀田は「私は本当におどろいてしまった。」

これでは、この罪なき人々の無残な大量死をもたらした政治的
「責任は、原因を作った方にはなくて、結果を、つまりは焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者の方にあることになる! そんな法外なことがどこにある! こういう奇怪な逆転がどうしていったい起こりうるのか!」
と、堀田は強い怒りを持って告白している。なぜなら、
「私はピカピカ光る小豆色の自動車と、ピカピカ光る長靴とをちらちらと眺めながら、こういうことになってしまった責任を、いったいどうしてとるものなのだろうと、考えていたのである。こいつらぜーんぶを海のなかへ放り込む方法はないものか、と」不届き千万にも「考えていた。」
これは「英訳レーニン」の世界なのだろう。

そして
「とはいうものの、実は私自身の内部においても、天皇に生命のすべてをささげて生きる、その頃のことばでのいわゆる大義に生きることの、戦慄をともなった、ある種のさわやかさというものもまた、同じく私自身の肉体のなかにあったのであって、この二つのものが私自身のなかで戦っていた。せめぎあっていたのである。」(同61ページ)」
という根本的な矛盾を正直に吐露している。
そのよって来るところを、堀田は「方丈記」を読み込む中で次のように展開する

「しかしこういうことになるについて、日本の長きにわたる思想的な蓄積のなかに、生ではなくて、死が人間の中軸に居据るような具合にさせて来たものがある筈である、というのが、その信じられない、という疑問に対する私自身の答えであった。」(63ページ)
としながらも堀田は、まだここではあくまで「仮説」「仮定」であると断っている。明治以降の日本帝国主義、軍国主義教育だけにすべての原因を絞れるものではないのだと。

「そうしてさらに、もう一つ私が考え込んでしまったことは、焼け跡の灰に土下座をして、その瓦礫に額をつけ、涙を流し、歔唏しながら、申し訳ありません、申し訳ありませんとくりかえしていた人々の、それは真底からのことばであり、その臣民としての優情もまた、まことにおどろくべきものであり、それを否定したりすることもまた許されないであろうという、そいういう考えもまた、私自身において実在していたのである。」(同)
それは、いわゆる「政治学」で合理的に割り切れるものではない。

これは、高橋和巳が小説「邪宗門」で元帝国大学勅任教授の中村をして、法廷で
「・・・ヨーロッパ的観念から言えば、天皇制というものが、この日本社会の上部構造の最先端にあると目されるものなのでありますが、残念ながらそれはローマ教皇の地位と権威には相当せず、天皇制を支える神道理念は、先端まで行ったところで、ふわっと、農村の自然崇拝とその日々の感情生活へと解体されるのであります。・・・・」
と陳述させたことと通底するのではないだろうか。

「もしそうだとしたら、そういう無限にやさしい、その優情というものは、いったいどこから出てきたものであるか。また、その優情は、・・・・政治として果たしてそれをどう考えるべきものか。あるいは逆に、政治
は人民のそういうやさしさに乗っかることは許されてしかるべきことかどうか?・・・・・支配者のこととしても、人民の側のこととしても、私には理解不可能であった。なぜ、どうして、というのが、25年前の焼け跡を歩いての、私の身体にいっぱいになっていた疑問だった。」(63-4)ページ

そして堀田は、これに「無常観の政治化」という言葉を当てはめる。

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